黄金湯訪問記(Adventures in Koganeyu Japanese translation)


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銭湯だ。大衆浴場だ。
先程までいた洒落たロッカー室を背に、私は少しばかり驚いた。
それほど銭湯に行ったことのない私の脳裏にすら刷り込まれている、日本の古くからある銭湯の風景が目の前に広がっている。
そうだ、私は銭湯に来たのだ。

同時に、硫黄のような独特の匂いが鼻腔に留まる。何の匂いだろうか。少しの違和感を感じつつ浴室に足を踏み入れる。少し黄色がかったクリーム色のタイルが足の裏に張り付く。
一見したところサウナ室は見当たらないが、浴室の奥に控えめなアルミ扉が見えた。あそこがサウナへの入り口であろうか。
妙に目に留まる、発色の強い黄色の風呂桶がシャワー台に並んでいる。私はそれらに導かれるように、シャワーの前に腰を下ろした。
シャワーは昔ながらの固定式だ。こういうタイプは水圧の弱いものが結構ある。蛇口をひねった瞬間、私の小さな心配事は汗と共に洗い流された。髪を洗おうと手を伸ばすと、そこには銭湯に似つかわしくないパッケージのシャンプーがあった。ロゴがスタイリッシュで高そうだ。

髪を洗い、体を洗う。
今から大仕事を行うであろう、汗腺の入口を丁寧に洗い、流す。

サウナに入る前に体を温めておきたいと思い、色のついたお湯を、ボコボコと波立たせている薬湯に入る。浴槽に腰をおろすと、強力なバブルが口元までやってくる。いささか強すぎるバブルの隣に座り、体温の上昇を感じながら、ふと上をみやる。

天井には控えめな色彩の、しかし美しい模様の布が連なり吊らされていた。それらを吊るす細いワイヤーは男湯と女湯の間の壁をまたぎ、横断している。自由気ままに浴室内の風を受け、ひと方向に靡いてみせる。私はそれを見る。

芯温が十分に温まったところで、次は水風呂に入る。サウナが無ければこれでも気持ちいいのだ。優しい水の温度が体を包み、やがてまとわりつく。薄い衣を纏ったような状態は、ずっとここに浸かっていられる気にさせてくれる。

しかし、私はサウナに入りたくて来たのだ。名残惜しいが水風呂から出る。まとわりつく水の余韻を振り払い、浴室の奥にあるアルミ扉の前に立ち、ノブに手をかけた。

私はまた驚くことになる。扉を開けると、東京の狭隘さを象徴するかのような狭い通路が続いており、無機質な色の壁に囲まれている。明らかに先ほどまでいた大衆浴場とは異質な空間だ。片方の壁を見ると、以前あったであろう壁の仕上げ材が取り払われ、そのままのコンクリート面が剥き出しである。もう片方の壁は真新しいコンクリートブロックだ。それらに囲まれた通路は、狭いながらも奥へ続くアプローチとして期待を増幅させてくれる。

奥へ進むとこのスペースの全容が見えてくる。目に飛びこんでくるのは、水中からライティングされた大きな水風呂だ。青く光る水槽は、この空間の薄暗さと荒々しいコンクリート面も相まって、洞窟の中の美しい水面のようである。こんなの、入りたくなるに決まっている。水風呂の横にはさらに奥へ続く通路があり、外気浴スペースがチラリと見える。水風呂の正面、コンクリートブロックに囲まれていたのはサウナ室であった。動線はこの上なくシンプルだ。

水風呂の水に触れてみる。
冷たい。内部にあった水風呂より明らかに冷たい。熱々の体でこの水風呂に入るとどうなるか、私の頭は瞬時にイメージを描き、「早くサウナに行きたい」と体が叫び出す。後ろを振り返り、サウナ室への扉に手を掛けた。

静かで薄暗い空間に男たちが腰掛けている。サウナ室内はベンチが上下2段になっており、それぞれ5〜6人が腰掛けられる程度のスペースがある。壁面は麦飯石で仕上げられており、モダンな雰囲気だ。扉を入って左手にサウナストーブがあった。敷き詰められた熱々のサウナストーンの上部には、反射板から細い管が伸びてきている。オートロウリュ仕様である。私は運良く空いていた、サウナストーブ正面の上段に腰を下ろした。

テレビは、無い。
時折、誰かが汗を拭う音がする。他人の呼吸の音が聞こえる。壁の向こう側の微かな音が聞こえてくる。

とくん、とくん、とくん

配管を流れる水の音だろうか。静謐な空間にあってとても印象的な音だ。水の動きが胸の中をすーっと通り抜けるようで、とてつもなく心地良い。

まろやかでありつつ、しっかりと熱い。高温の空気に触れた体が熱を取り込み、脈拍が徐々に上がっていく。いつの間にかサウナ室は満室になっていた。入り口の小窓から順番待ちをしている男の顔が見える。

7~8分経っただろうか。もう一息というところで、突然、蒸気が吹き出すような音がサウナ室に鳴り響いた。オートロウリュ開始である。サウナストーンに吹きかけられた水は瞬時に空気に溶け込み、サウナ室内を満たしていく。体感温度が一気に上昇し、汗が流れ出す。「そろそろ出たい」と「この高温の中をまだ楽しみたい」という気持ちがぶつかり始める。そう逡巡しているうちにも汗は流れる。気付いたら脈拍がとんでもなく早くなってしまっていた。

「この体で水風呂に入るとどうか?十分熱を溜め込んでいるか?」
最終チェックも完了した。私はここで1セット目を終えた。

サウナ室を出て目の前の水風呂の前にしゃがみ込み、桶でその水を頭に掛ける。掛ける。掛ける。冷たい!
青い水面に足を踏み入れる。息を吐きながら全身を完全に水に沈める。
全身がギュギュッと引き締まり、足先は一気にヒリヒリと痛みの手前まで緊張する。

水風呂はかなり深く、難なく肩まで浸かることができる。
何秒、何十秒浸かっていられるだろうか。
私は感覚の世界に浮遊し、ただ呼吸する。水中の光が眩しい。

ある瞬間、スッと息が冷たくなる。
冷えた息は、喉から鼻へ、額を通り頭の中に流れ込む。
サーっとした感覚。これを合図に私は水風呂から上がる。

手早く体についた水を拭き取り、奥にある外気浴スペースへ移動する。
通路を抜け外部スペースに出る。
外気浴スペースはオレンジがかったベージュ色のルーバー壁で囲われており、屋根はない。深く腰をかけることが出来る白い椅子が7脚置かれており、男たちが思い思いに腰掛けている。幸運にも、一つだけ空きがあった。

ゆっくりと腰を下ろし空を見上げる。
頭から後頭部が離れていくような感覚。
ゆらゆらとした浮遊感を感じながら、四角い空が目の前にある。
しばらくすると意識が空へ浮遊していき、東京の、錦糸町の雑踏とした路地の一角、ただ壁一枚で囲まれたこの空間を空から見下ろすような不思議な感覚になる。その瞬間、東京という大都会から切り取られたこの場所、この一瞬がこの上なく尊く感じられたのである。

見ず知らずの男たちが放心して並んでいる光景は、普段であれば奇妙に映るであろう。しかし今の私は、彼らと幸福感で繋がることができる。
私は深く深く整った。
東京の、錦糸町の一角で出会った見ず知らずの男たち。彼らにも幸せな整いが訪れんことを。
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暖簾を潜ると、外はもう暗くなり始めていた。
なんとも言えない気持ち良さを感じながら現実世界に戻ってきたようである。

歩き出したところで、ふと思う。

ここには、色々な「相違」が散りばめられている。
言い換えれば、ここで感じた小さな驚きたちである。
それらは、サウナ室に入った時、水風呂に入った時、水風呂から外気浴に出た時に感じる身体の驚きを増幅してくれているのではないだろうか。それが、ここのサウナで深く整えた理由ではないだろうか。
そんな答えのない仮説を妄想しながら、先ほどまでいた建物の方へ振り返る。

薄暗い路地の中で、黄金湯の看板が静かに光っていた。

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